一年
どうやら、開設して、一年が経ったらしい。
早いような、遅いような。
一年で、大して書けてないような気もする。
書きたい時は、一気に書きたくなるのだが、中々、書きたい時は訪れない。
まぁ、これからも、マイペースで書いていこう。
ダークナイト
あぁ、やべぇよぉー、1つ企画ブッ飛ぶんじゃないか!!?
どうすんの!!?
せっかく時間かけて準備したのになぁ、と一抹の…いや大きな不安を抱えながら書く。
あれだけ、「ジョーカー」を褒めておいて、「ダークナイト」を見ていないのは、どうなのだろうと思い、見てみる。
やっぱり、俺、ヒーロものは、合ってないんちゃうか?
どうも、体に合わない。
バトルシーンだからと、カメラをグルグル回せば良いってもんじゃないだろ!
全てのシーンという訳では、無いが、イマジナリーラインもくそもない。
あそこまでやられると、もう何が何だかよく分からなくなる。
被写体をきちんと映すことによる緊迫感がなくなるのだ。
金をかけるのは良いが演出意図が見えない。
だから、せっかくのヒース・レジャーの熱演も映画の中にはまらない。
ジョーカーという、理由はなく、ただ面白さを求めて、人を殺すというキャラクターもそこにある恐怖が伝わってこない。出てくるキャラクターと鑑賞側に感情の差があるのだ。
やはり、ヒーローやってる、てめぇは何だかんだで金持ちやないか!というバットマンシリーズの批評的ポジションにある、「ジョーカー」の方が、素晴らしく感じられる。多少、日本人的発想かもしれないが。
気狂いピエロ
ゴダール先生二本目。
おぉ、素晴らしきヌーヴェルヴァーグ!
ゴダールお得意のジャンピングカットと詩的な台詞の応酬。
これをリズムによって「映画」にしてしまうのだから、本当にかなわない。
「ピエロ」になれない男が、「ピエロ」になろうとする話。
フェルディナンは、「映画」とは何か、知りたい、こう尋ねる。
「映画」とは感動さ。
つまり彼の日常には、感動がない。
彼の日常とは、自分が安全に生きていくためにしか存在しない。退屈な日常。
非日常を満たすことができるのは、美しい女のみ。フェルディナンは奔走されながらも、マリアンヌと共に「映画」を体感してゆく。彼らの行動はスリルとロマンであり、まさに「映画」そのものだ。
しかし、そのスリルとロマンとは裏腹にフェルディナンは、安定を求めようとする。そして、その時から「狂い」は始まるのだ。
だが、その「狂い」の中にこの映画の最も美しきべき、女と男は描かれる。
(某け○の氏の某曲の詩が丸々これだと知った時は流石に驚いた)
フェルディナンは「ピエロ」になれぬまま終わらぬと再びマリアンヌと行動を共にするが破綻。
彼が「ピエロ」になるためには、マリアンヌを殺し、更に自分をも殺すことで「ピエロ」をそして「映画」を永遠のものにする他なかったのである。
時をかける少女(実写)
これを今書くのは卑怯か?と
思いつつも書く。
そういえば、大林監督作品は全く見ていなかったなと思い出し、早速TSUTAYAでレンタルして「時かけ」を見てみる。
これ、あまりにも淡白過ぎないか?
狙ってやってるのは分かるが、これじゃ、発端部の掴みがあまりに悪い。
主人公に対して、まったく入り込めないではないか。
これは、全体的に言えることで、キャラに小綺麗な台詞回しをさせているのはいいが、それをやり続けることによって、見る側との距離はみるみる離れていく。
カットの繋ぎにしても、妙に繋がっておらず、テンポが悪い。
それに加えて、陳腐なアニメーション。
(これらも狙ってやっているのだろうが)
これは、しんどいなぁと思って、気持ち半分で見ていたら、なんと仰天、ダメだダメだと思って見ていたあの淡白さが、
深町と和子が分かれるラストシーンで、意外にもカルタシスを生んでいるではないか!
序盤では感じられなかったが、終盤になるにつれ、ハマるとまではいかないまでも、映画独特の味をあの淡白さが上手い具合に支配しているのだ。
とはいえ、しんどいことに変わりはないが。
というかこれ、「君の名は。」原型なんだなぁ。
2016年に「君の名は。」を見、はっはっ、なぁに新海誠は、2016年にもなってこんな王道をやってんだい!と既に体感していらっしゃいました、諸先輩方におかれましては、なにぶん私、若輩者ですがゆえに、ご勘弁いただきますよう何卒よろしくお願い申したいと思います。
まぁ、物語において、時代は繰り返すんだねぇ。。
ヒミズ
映画を見て、何か書かなければ、やはり腐ると思い、書く。
園子温監督に関して、話題になってるなぁ、というくらいの感覚で、不勉強ながら、これまで、特段見ることはなかったが、とりあえず「ヒミズ」を見る。
まず、役者の熱演には、驚く。
正直、今の邦画で、ここまで、叫び狂って演技が出来るキャパシティは、あまり見ない。役者をあそこまで、暴れさせる場所を提供しただけでも、この映画に意味はあるのだろう。
だが、震災というテーマを映画の中で上手く盛り込めていたのかというと、それは疑問だ。
人間が、ただひたらすら狂えば良いというものでもない。
それは、はたから見れば、分かりやすいが、はたして、震災というテーマを、分かりやすさ、と繋げていいのか。
もっと複雑な人間模様があるはずだ。
全体的に、感情が優先した、一辺倒なものになってしまっている気がするなぁ…
ジョーカー
気づけば、もう年の瀬。。。
慌ただし過ぎて、えらい更新期間が空いてしまった。
来年も色々と頑張ります。
それはともかく、2019年の間にこの映画については、書いておきたい。
泣いた。泣いた。多いに泣いた。
この映画とは私にとって、そういう映画だ。
今作では、アーサーが生み出した妄想によって、映像の混乱が産み出される。
ただ、この映画において、アーサーの妄想による、映像の混乱はあくてまでも、映画を楽しむためのスパイスでしかない。そこだけを見ていてはいけない。
そうでないと、この映画の本質が分からなくなる。
マイノリティの話なのだ。
アーサーとは、妄想障害であり、世間からは奇異の目で見られる存在として描かれる。つまり、誰からも理解されない存在なのだ。
映画における、光とは非常に重要な役割を果たす。「ジョーカー」は光が上手い。
彼が、危機的、孤独な状況に陥る度に、それに合わせた不快な深緑の光や、かと思えば、まるで希望があるかの様な光が彼を照らし出す。
特に素晴らしいのは、彼がジョーカーとなり、階段を降りるシーン。
あれは、本当に素晴らしい。
ジョーカーという孤独、それをよく表してる。
全てを失った彼は、笑うしかないのだ。
笑って、階段を降りながら、人間というものすらも、降りる、つまり捨てるしかなくなってしまったのだ。
このシーンには、一部の現代人にも通ずる何があるのではないだろうか。
私には、それが痛い程伝わる。
これは、マイノリティの話なのだ。
空の青さを知る人よ
「あの花」、「ここさけ」と続き長井龍雪監督の秩父オリジナルアニメ第三弾にあたるのが今作「空青」だ。
流石の長井龍雪といった所で演出も光っている。作画も素晴らしい。
なんというか、上手くまとめたなぁ……という感想だ。
要するに「あの花」のファンタジー要素と「ここさけ」の三角関係恋愛要素をまとめた集大成としてこの作品はある。
「あの花」であまり上手く機能していなかった、ファンタジー要素も今回はしっかりと機能していた。
正直、気になる所は殆ど無い。
ただ、小綺麗にやり過ぎて、見終わった後にそれほど残るものがない。
監督の思想というか、作家性があまり見えてこないのだ。
もういっそのこと、岡田麿里脚本ではなく、長井監督が脚本を書いてもいいのではないか?
まぁ、それはともかく次の作品にも期待したい。