シン・エヴァンゲリヲン劇場版

まず、私はエヴァンゲリヲンにそれほどの思入れがあるわけではなく、そしてこの映画はこれまでエヴァンゲリヲンを追い求めてきた人にこそ、捧げられるべきものである。しかし、それでも私自身はこのエヴァが、これまでのどのエヴァより作品的な意味を持つと感じ、心動かされたのは間違いない。

正直であること。これにもう一度向き合ったのが本作と言えるだろう。序破Qの新劇場版は、どこか旧エヴァに比べ、正直さに欠けていた。つまり、庵野秀明のフィルムらしくなく商売のための映画という感じが漂っていた。またそれは、庵野秀明自身が新劇場版をやる意義すら疑わせることと同義だった。

だが、本作ではこれまでのエヴァのイメージ、虚構と現実の楽屋的モチーフを扱うことで最後にエヴァンゲリヲンを意味をもって、終わらせることができのだ。

そして、シンジが碇ゲンドウ碇ゲンドウがシンジに向き合うことで、母性の喪失を認め父性を取り戻した。父性を取り戻したことが、大人になること、でありエヴァンゲリヲンが一歩進んだことであるのだ。エヴァンゲリヲンが一歩進んだことでエヴァはようやく役目を果たし終えたのである。

ケイゾク

もう、20年くらい前のドラマだ。暇を見つけて、ちょこちょこ見ていた。ようやく#12まで見終えた。どう考えても「エヴァ」の影響を感じさせる本作だが、それを置いておいたとして、巧みなスキルの積み重ねによって素晴らしい作品へときちんと昇華されている。(特に色。あの赤のイメージは当時のエヴァが与えた影響の強さが窺える)

ドラマは低予算での勝負になるため、画面に豊かさをもたせられない。そのため創意工夫が必要だ。その工夫を、演出の力で見事に補っている。

例えばこのドラマ、顔のアップがやたらに多様されている。この顔をアップするというのは、簡単にショットに深みをもたせる効果がある。しかし、アップだけでは間がもたないからと、次々にカットを変えていく。ここのカットとの繋ぎ合わせの中に、ドラマのリズムが生まれ作品を作品たらしめる要素が完成される。イマジナリーラインを悠々と超えてしまう所も実にテクニカルだ。そして、レンズの取捨選択。レンズを突然、変えることで、映像内に特殊な違和感を生じさせる。また、俳優も良い。実写における最大の強みは俳優を最大限生かせることにある。特に、素に近い形で演じると演技に取り繕うことのない自然な感じが出る。これを「ケイゾク」では渡部篤郎中谷美紀も踏襲しており、画面の中に魅力的に映し出されている。(渡部篤郎!あの雰囲気は本当に凄い)

この作品は、ただの刑事もののミステリーに終わらせない。刑事でなければいけない理由が織り込まれている。国や法律に相対した正義に葛藤させ、しまいには、

「心臓が息の根を止めるまで、真実を求めてひた走れ」だ。

良いね。本当に。これを見ている人は、頭の中で何にでも変換出来てしまうのだろう。こういう要素が共感に繋がるのだろね。

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▲第一話やOPに度々使われる台場公園。今は、オリンッピクのため、一部工事が行われている。実は、毎日の通り道の近くにある。どうせならとロケ地探訪をした。

 

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▲第一話で、犯人が自殺した場所。

入院中に考えたこと~これからの所信表明~

たまには、趣向を変えて映画以外の、それもエッセイ的に書いてみるのもいいだろう。

年末年始頃から、(あるいはもっと前から。原因不明なので詳しくは分からない。)色々なやるべきこと(そのうちの一つは後述する。)が重なりよく休めずにいた。夜は寝つきが悪い、嘔吐もあった、あまり外に出ないのも良くなかった。それらが体に堪えたのか、持病が悪化して、手術するためについ先日入院した。(因みに流行りのコ○ナではない。)

入院とは言っても、一泊二日だ。実は、この手術を受けるのは3回目で、かなり慣れている。入院経験の中では割合、豊富なうちに入るのではないだろうか。であるからまず、私の短い日数ではあるものの、自身の入院経験を元に、手術前に心がけておいた方が良い一つのことを記しておきたい。

手術前には、絶対に寝ないことだ。これは病状にもよるし、即手術する方などには関係のない話だが、手術前に時間がある場合、非常に大切なことだ。一度でも入院を経験された方などはお分かりになるだろうが、入院中、特に手術後は、麻酔の関係で動きがかなり制限される。そうなると、背中辺りが物凄く痛くなるのだ。私は最初そのことを全く予想しておらず、手術前に時間もあるし、睡眠不足でもあったしで、寝てしまっていた。こうなると手術後が最悪で、ただでさえ手術前に寝ていて、固定された姿勢だったのに、それがまた続いてしまうのだから大変だ。ということで、これから入院される方は気をつけていただきたい。

そして、病院にいるとき、ひいては病気そのものについて考えたことがある。病は気からとはよく言うが、かなり的を得ているのではないか、と思っている。これは、プラトンの『国家』でも述べられているが(記憶が曖昧なので違っていたら申し訳ない。)「そもそも病人って、薬飲みすぎだし、病人自身が病気だと思い込んでるから、病人になるのでは?」といったような主張がなされている。実際、入院中も4人部屋の中で過ごすのだが、周りの方も辛そうで、そういった陰気な雰囲気がこちらにも乗り移り、あぁ自分は病気なのだなぁと思い込んでしまう。(これは、入院でなくとも、病院にいれば感じることではないだろうか。)かのビルエヴァンスの生き方が「ゆっくりと時間をかけた自殺」と評されたように、生きることとは、ある種の自殺でもあると思っている。これと反対に、

youtu.be

レミの「さようならいつだって~♪生きることは闘いさ~♪だからまた今日も~♪また歩きだそう~♪」があり、生きることは闘いだとも思うのだが。

大脱線した話を戻すと、精神的なものを強く保つことこそが、私は健康の秘訣だと思っている。これは最近の教訓だ。そんな教訓をもっていても、今回殺られてしまったわけだが。

そんな私が、殺られてしまったのには理由がある。

今、『夜の目覚め』というイラスト小説を創っている。イラストは私が描かかないので、共同作業だ。これが、中々の難航っぷりでもう大変だ。

▼冒頭のワンシーン。(イラスト:知徹 (@chitetsu123) | Twitter)
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共同作業のため、執筆と並行してのイメージの擦り合わせにてんてこ舞いになってしまっている。お互いイメージが固まっていないため、進まない。とはいえ、ここまで苦労して創っているのだから、酷いものにはならないだろうと思っている。色々とプロモーションの方も考えていたのだが、そっちは正直分からない。本の形にはします。コミケには申し込み済みなので、当選したらそれにも必ず出ます。しかし、これにしても、かなり長めのプロモーションの様なものなのだが。

今の体制を若干見直しつつ、取り敢えず今は、どんな形であれ、何としても『夜の目覚め』を完成させる。

(詳しい情報は順次こちらでも発信してまいります。)

椿三十郎

勿論、黒澤監督版。

(後から調べたら「用心棒」の続編と分かって、あっちゃーと思ったが、話の筋は理解できたから良し。事前情報は大切ですなぁ・・・)

非常にまとまりのある映画だ。

特に間の緩急のつけ方が素晴らしい。

最早これは言及するまでもないが、黒澤の映画は役者、美術、カメラワークに至るまで、その動的リズムが、映画全体を彩っている。

しかし、本作では黒澤の特徴でもあるカメラワークが、暴れすぎない。

中でも印象的だったのは、主人公演ずる三船敏郎入江たか子が初めて会話をするシーン。丹念に撮ろうという気概!敢えて例えるなら、小津的ともいえる。それほど、情緒を感じられるものだったのだ。そして、ラストシーンのため過ぎる程の間をサッ、と終わらせる感覚。上手いなぁ・・・と思う。 

 この間の抜き差しが、まさに椿三十郎の感情の機微を表しているのだ。

HOUSE

大林監督二本目。

なんというか、大林監督の「おもちゃ箱をひっくり返したような映画」という作品性を分かっていれば、こうまで見やすくなるのかと驚いた。

まず、映画全体の色が良い。出てくる小物、照明、書き割りまでもがこの映画の見得として見事な役割を果たしている。

そして、所謂あざといほどの「あの時の表情」にも惹かれた。

これもまた見得である。

そして、本作の大きな特徴とも言える、ちゃちな特殊撮影。

前述したが、私はこの映画を見得の映画だと思っている。

手作り感が透けて見える合成技術の数々は、ホラーというジャンルの中に一瞬の「笑い」という余白を生む。

私はかねてよりホラーとギャグは表裏一体のものだと考えている。

それは、伊藤潤二などを見れば分かるとおり、ホラーとは、冷静に見れば、ギャグなのだ。

このギャグというある種の自虐が、ホラーという要素を加速させるのではなく、減速させることで、丁度良い塩梅を生み出している。

このちゃちな特殊撮影という見得をきればきるだけ、映画をより効果的なものにしている。

私はこの映画を、少女が母性を獲得するまでの話だと捉える。

それはラストの池上季実子と鰐淵晴子が対面するまでのシーンが克明に描いているといえるだろう。

特に、池上季実子が乳房を丸出しにしながらファンタを抱くシーンは確信的だ。

このシーンはおばちゃまが単に若返ったのではなく、池上季実子がずっと心の取っ掛かりであった、おばちゃまと一つとなることで母性を獲得したと考えるべきだろう。

その状態での鰐淵晴子との対面。和解するのかと思えばそうではなく、理解できない存在なのだから殺してしまえ!というのが実にホラー的で良い。

かなり意図的に意味が組み合わさった映画だ。

しかし、尾崎紀世彦が若いなぁ・・・

 

花とアリス殺人事件

私は脆弱ゆえ、アマプラに入会したり退会したりを繰り返しているのだが、今月は見たかった映画が追加されたので入会している月である。

 

花とアリス」もかなり好きな作品で、前々から気にはしていたのだが、どうも岩井監督のアニメというのに抵抗感があって見れていなかった。

しかし、貧乏性が働いてか、見ることにした。(お目当ての映画も見ずにでだ。)

やはりというかなんというか、画創りの方は流石に苦しいものがあった。

なによりも表情や動きが硬い。その違和感が払拭できていなかった。

そして、ストーリーは小さな物語だ。

だが、この映画の本質は違和感と小さな物語である。

ロトスコープを使ったことにより、人間的仕草のリアリズムが担保されており、これに違和感を感じてしまうのは、やはりあまりにも私自身が従来のアニメというものに支配されている証拠なのだ。

そのリアリズムが積み重ねられたうえでの、何も起こらない小さな物語。

花とアリス」の時もそうだが、この作品は一貫して、少女の日常から生まれる美しさを描いている。従来のアニメとは外れたリアリズムをもって、少女を描くからこそ、この映画には意味がある。

不思議なことに、見終えた時のストレスがまったく無かった。

この手の作品なら、感じそうなものなのだが、前述したものがきちんと機能していたとしか思えない。

アニメとして稀有な作品だと思う。

 

 

 

 

 

かくしごと

このコロナ禍で時間に余裕ができ、もう何年も俗に深夜アニメと呼ばれるものを見てきていなかったが、やたらPVに惹かれ、つい最後まで見てしまった。

 

やはり一貫して、父と娘の距離感について描いているのが良いのだろう。

これは、OPやEDの映像でもそうなのだ。

父と娘のテーマをぶらさない。

 

www.animatetimes.com

漫画原作ものを監督するのは初めてだったのですが、以前、大地丙太郎監督のもとで演出をしていた際に、「漫画原作物を扱う際、答えは全て原作の中にあって、アニメ屋が勝手な解釈を入れるべきではない」と強く言われたんですね。アングルや色合いは勿論、そのコマに背景まで描いてあるのか、キャラしか描いていないのか、それら全てに作家の個性や解釈が含まれているんだから、その意図を読み取る努力をしろと教えられました。

 

ここでも語っていたが、アニメーション全体に大地監督へのリスペクトが強く感じられ、ギャグとハートフルの塩梅がとても良い。

原作の味を最大限引き出した結果なのだ。

しかし、唯一疑問があるとすれば、キャラクターデザインだ。このデザインでは、キャラクターに演技をさせることが出来ない。

それによって、最後の演出にキャラクターがついていかない。

そこが、この作品の押しの弱さである。

まぁ、これは原作に寄るところが大きいのだろうが、だからこそ新房監督との相性の良さもあったのだなと感じてしまう。

 

何にせよ、最早、何を描きたいのか分からない、昨今の迷走しているアニメに比べれば、数倍良かったということは確信しているのである。