気狂いピエロ

ゴダール先生二本目。

 

おぉ、素晴らしきヌーヴェルヴァーグ

ゴダールお得意のジャンピングカットと詩的な台詞の応酬。

これをリズムによって「映画」にしてしまうのだから、本当にかなわない。

 

「ピエロ」になれない男が、「ピエロ」になろうとする話。

フェルディナンは、「映画」とは何か、知りたい、こう尋ねる。

「映画」とは感動さ。

つまり彼の日常には、感動がない。

彼の日常とは、自分が安全に生きていくためにしか存在しない。退屈な日常。

 

非日常を満たすことができるのは、美しい女のみ。フェルディナンは奔走されながらも、マリアンヌと共に「映画」を体感してゆく。彼らの行動はスリルとロマンであり、まさに「映画」そのものだ。

 

しかし、そのスリルとロマンとは裏腹にフェルディナンは、安定を求めようとする。そして、その時から「狂い」は始まるのだ。

だが、その「狂い」の中にこの映画の最も美しきべき、女と男は描かれる。

(某け○の氏の某曲の詩が丸々これだと知った時は流石に驚いた)

 

フェルディナンは「ピエロ」になれぬまま終わらぬと再びマリアンヌと行動を共にするが破綻。

 

彼が「ピエロ」になるためには、マリアンヌを殺し、更に自分をも殺すことで「ピエロ」をそして「映画」を永遠のものにする他なかったのである。