天気の子

新海監督の「ほしのこえ」を見た時、物凄い衝撃を受けた。インディーズであるからこその作家性。これまでのアニメには無かった独特の背景美術の美しさ。しかし、新海監督のインディーズ性は「君の名は。」で良くも悪くも途絶えた。絶賛がある一方で、批判意見も多くあった。いきなり、ここまでの注目を浴びた新海監督はかなり戸惑った事だろう。

 


「天気の子」は新海誠が自己投影された作品である。
まず驚いたのはこれまでの新海誠の大きな武器であるはずの圧倒的なまでのセンスを持った色使い・撮影技術による背景美術がほとんど無い事だ。映るフィルムはいくつかのカットは省くにせよ、どんよりとした雨空ばかりだった。これが新海誠の「天気の子」を作るまでの間見ていた暗く淀んだ世界なのではないだろうか。新海誠は自分自身の思いをメインキャラの二人、帆高と陽菜に乗せている。全体を通して描かれる帆高の何か怒りをぶつける様な迷走した行動は新海誠自身なのだ。そして人柱となり、多くの人の期待を背負う事になり、消えてしまいそうになる陽菜もまた新海誠自身なのである。要するに新海誠は迷っていたのだろう、自分がこれからどの道に進み作品を作れば良いのか。その悲痛なまでの叫びが作品に現れている。しかし、自己の投影である二人を作品の中でぶつける事で、新海誠は答えを見つける。それが最後のあの台詞だ。
つまり、新海誠は作品の最後の最後で俺は皆に分かる面白い作品を作る、と言い切ったのだ。
この作品の新海誠自身を投影する創り方の良し悪しを論じる気は私には全く無い。
何故ならば、自分に正直に迷いもがき苦しんだ過程を描写しきった後の答えに少なからず私が感銘を受けてしまったからに他ならない。